歴史-概要:
1912年-1918年 のクリムトはフェルドミュールガッセの庭付きの小さい家を賃借した; 1923年に、この家は新バロック式のヴィラに変えられ 所有者も変わった。
1939年、第二次世界大戦の初めに、土地建物は強制的に(アーリア人)に販売。 1948年返還の後、1954年にオーストリア共和国が収得。
1957年、老築化した建物は学校として使用されるために改修。 1958年平らな屋根は雨漏りにより寄せ棟屋根に取り替えられた。
クリムトの最後のスタジオは忘れられ、失われたと考えられていた。-口伝えでは“クリムトヴィラ”を記録していたが、オーストリア国外でクリムトはあまりに無名だった。 しかしロンドンそしてニューヨークと続く1964-5*展覧会が再発見の経過を明確にすることになった。
1998年
フェルドミュールガッセ11/15aの土地が宅地分譲され、クリムトヴィラ”の販売、また更に壊される危険が差し迫っていた。
「市民運動」が立ち上げられ、クリムト最後のアトリエがここに実存していた証拠を示すことに成功した。1922年と記された建物の設計図は市民運動のメンバーによって1998の夏再発見された。
1999年
1999年初めにグスタフ・クリムト・アトリエ保存協会は設立され市民主導で成長。クリムトのアトリエ-最後のそして彼のほかのアトリエがすべて取り壊された現在、存在する唯一の場所を救うことを目的とする。
2000年、協会の働きが実った。“クリムトヴィラ”はオーストリア共和国所有の歴史的家”としてリストに法的に記載された。
文化遺産損失 対 土地開発投資利益 の争い:
何年かにわたり現在の所有者、オーストリア共和国は、クリムトのヴィラおよび土地を販売することを試みている。 2004年投資家、ウィーンモスクワプロジェクト開発会社は、オーストリア政府の財政局によって、歴史的な家リストからクリムトヴィラを取除けばという条件で開発する承認を収得。
クリムトアトリエ保存協会は2004年に国会議員にクリムトのヴィラを「リスト」から排除しないように、土地を開発市場に出さないように嘆願書を提出。 2004年議員は「リスト」にクリムトヴィラの記載継続を決議した。
現状
クリムトアトリエ保存協会はオーストリア政府から、アトリエのある1階のヴィラ、庭とヴィラ隣のバンガロー(以前の校舎の建物)を一般公開することを「一時的な契約」にもとずいて許可された。
私達は来訪者にドイツ語及び英語の案内を提供。復活祭の日曜日から10月の最終日曜ならびに祝祭日の15:00 – 18:00時に限り一般公開。 バンガローの建物の部屋を利用した展覧会や朗読会を企画し、取り決めによる上記時間外の来訪やプライベートパーティにクリムトヴィラを開館する。
クリムトヴィラおよび庭の不確かな未来
ヴィラは全面的な修復が必要で、庭はクリムトが生きていた時に類似して再建されるべきであり、挑戦には2つの要素がある。
a)オーストリア共和国は再建および復元に財政援助の提供をしない事。
b)クリムトの庭の一部は法的に定められた宅地区画である事。現在のバンガロー(以前の学校)の建っている場所には、大きいマンションの建設がふさわしい。
クリムトアトリエ保存協会は、この場所はクリムト文化遺産と観光事業として価値がある事と主張。 さらに財政的な資産価値が新しい建設への可能性にあると主張。このように、クリムトヴィラを救うという可能性を提供。(「協会の使命」下記の通り)。
* ロンドン1964年マールボロウの芸術のギャラリーにて。ニューヨーク1965年グッゲンハイム博物館、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレ展覧会。
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